「昔ばなし」は、一歩足を踏み入れると、奥が深いと何度か聞いたものです。
今日は、その大本営といいましょうか、巨匠、第一人者の小澤俊夫教授の講演会です。
私の中では、偉人伝の名前のように「さん」付け出来ないほどの雲の上の方。
みなさんもそうなのでしょう、スタッフの方の「前のお席からどうぞ。」の言葉も必要ない程、前から埋まっていくのです。
浜松中央図書館2階会議室は、期待で胸躍らせる200人の聴衆でぎっしりでした。
開襟シャツをラフにお召しになった方が、確かに座っていらっしゃいましたが、来賓の方だと はなから思いこんでいた私。
司会の方の紹介で演台に立たれたのを見て、ビックリしました。
たぶん私の中では、拍手がありドアを開けての登場 と思い込んでいたのです。いやはや。。。
「こんにちは!後ろの方、聞こえますか〜?聞こえない?これでどうだろうかな?ん、これじゃだめだね〜、どう?」何故か笑いを取りながらのマイク調整。
あー、なんか気さくな方なのです。
一気に会場の空気が和みます。
「巨匠、小澤俊夫教授」が「小澤さん」になった瞬間でした。
一昨年、小澤さんから直接「昔ばなし」を学ばれたという藤本朝巳さんの講演会では、昔ばなしの興味深い話は聞かせていただきました。
そして、いよいよ今日、ルーツが 解き明かされる、という感じでしょうか。
演題は、「子どもの成長と昔ばなし」です。
「さて、いきなり本題に行きましょう。昔ばなしは何処にあると思いますか?」
え?何処って何処でしょう?語り手の胸の中?時空を超えた中?う〜ん、何処なんだろ。
「それは、語られている時間の間だけに存在します。語られてしまったら消えてしまうものです。
もっといえば、昔ばなしは時間的文芸なのです。」
そうですね。これこそ昔ばなしの心髄中の心髄。
ここを先ず押さえて、昔ばなしの特徴を聞けば、納得がいきます。
小澤さんの語られた昔ばなしの特徴を羅列してみましょう。
<語り>
(1)昔ばなしはシンプル・クリア=単純・明瞭ということです。
書き残された物には文学的な装飾があったり、教訓じみていたりと本来の形から離れてしまっている。
(2)時代・場所・人物を不特定に語る。
むかし、むかし(時代)あるところに(場所)おじいさんとおばあさんが(人物)
反対に「伝説」となると時代・場所・人物を特定する。
全世界の国が「おとぎ話」と「伝説」両方を持っている。
(3)主人公を孤立的に語る。
主人公を一人で登場させる。
小道具、大道具、敵対者ですら「孤立的」。
*何故かと言えば、耳で聞くため想像しやすいように工夫がされている。
ヘンゼルとグレーテルで言えば、「森の中に捨てられた(孤立的)」「お菓子の家はもちろん1軒、お隣さんはいない。」「魔女は1人、1人だから怖い。何人もいたら魔女の老人ホーム(笑)」
(4)昔ばなしの場面構成はつねに1対1。
白雪姫で言えば、「白雪姫」「女王」「狩人」すべて1対1
*7人のこびとは7人だけど1単位。一緒に起きて、一緒に寝て、一緒に食事して。。。個性はない。名前もない。(名前を付けたのはディズニー。あってはいけない。)
(5)同じ場面は同じ言葉で語る。
音楽も、同じ。「同じメロディーが出てこない音楽はない。」
白雪姫は3回(ひも、くし、りんご)で殺されているがディズニーは1回にしてしまった。大事なリズムを壊してしまっている。
人間の心地良いリズムは2小節2小節4小節。バーフォームという。
モーツアルト、ベートーベン、シューベルトが好んで使った。
言葉もままならない1才半の子どもですら、リズムは感じる。リズムの喜びというのは、いかに人間に根源的なものだろうか。
ポップスであれ、歌謡曲、ロック、演歌みなこの様式が使われる。わらべ歌にいたっては100パーセント。
「ニッポン、チャチャチャ」も1,1,2(2,2,4と同じ事)。
*その人間の根源のリズムが昔ばなしの中にあるのだから、決して壊してはいけない。
(6)語り方が図形的、切り紙細工的
首を切っても血が流れていない。切り口はラフでなく、すぐに元に戻る。
「馬を切り紙細工で横向きに(頭の中で)作ってください。足を1本切ってください。それでも馬の形は崩れていない。それだから馬は走ることができるのです。」
(7)時間の一致
絶対にぶつからない。
「馬方山姥」(うまかたやまんば)で言えば馬方が甘酒を吸っているときに、山姥は起きない。馬方が餅を食っている時に山姥は起きない。
昔ばなしは場面がごちゃごちゃするのがきらい。
格闘シーンを見せるつもりはない。
(8)写実的には語らない。
血まなぐさくは語らない。すさまじい場面で気を引こうとは思っていない。講談とはちがう!
ゴールに至るまでの一体験に過ぎない。
(9)昔ばなしの経済性。昔ばなしの節約性、倹約性。
「馬方山姥」(うまかたやまんば)「かやで甘酒をつっばつっぱと飲み、次に餅をついて食べるのだが、同じかやを使っている。」(笑)
昔ばなしは一度取り入れた物を何回も使う。
同じ言葉を何回も使うのもしかり。
<内容>
昔ばなしは何を語ろうとしているのか?
「はなさかじじい」「したきりすずめ」ーーーー小澤さん曰く「となりのじじい型」(笑)
・主人公が年寄り
・良いじいさんは最後まで良いじいさん、隣の悪いじいさんは最後まで悪いじいさん。
この手の話は約1000ある日本の昔ばなしのたった12.3種類のみ。
何故、となりのじじい型がはやったのかと言えば、明治以来の学校教育にいいということで、よく教科書に載ったため。勤勉!正直!
*子どもや若者が主人公の場合
主人公が変化しながら成長する姿を語っている。
この成長の落差を昔ばなしは語りたがっている。
お会いする前は、もう少しお年を感じさせるお姿で 、などどと想像していたのですが、とんでもない!!
話言葉もべらんめい調ですが品を感じ、声の質も若々しく、まだまだ現役バリバリのエネルギーといいましょうか、パワーを感じました。
講演会でお話をお聞きしていると、<語り>の説明の(同じ場面は同じ言葉で語る)ここに、一番力を入れてお話をしていました。
リズムの喜びはいかに人間に根源的なのか!
それを説明する小澤さんの音楽の造詣の深さには、やはり世界的指揮者の小澤征爾さんのお兄様でありますから、さもありなんなどと思っていたのは私だけではないでしょう。
講演会から帰ってくると、1年生の息子が歌を歌っています。
「しろくまのジェンカ」、これも思いっきりバーフォームじゃ、ありませんか。
心地よいリズム、綿々と人間は語り継いできたのだということをシンクロして教わったようでした。
昔ばなしは、根源的なところ 底の方で、人間が何を求めているのか小澤さんが力説するように知っているのでしょう。
そして<内容>については、講演の半分の時間を使ってお話してくださいました。
昔話は、勧善懲悪というよりも、もっともっと人生をやさしい目で見ており、それを子どもらに伝えているということが良くわかりました。
そして、その姿勢は、小澤俊夫さんそのものだということもよく分かりました。
大学の先生というお立場から、学生を慈しんで育ててきた話は、胸をうつものでした。
「三年寝太郎」三年寝ててもいいんだよ。いやでも大人になりゃ、起きるんだから。。。
いいじゃないの代返、大学なんて4年で卒業しなくたっていいの。
一生は寝てられないんだから。。。
その三年寝太郎組の教え子が数十年後に、会社の要人となって出会ったりすると
オイオイ大丈夫かと言ったりするが、「僕はホントに嬉しいんですね〜。」と小澤さん。こんな嬉しそうに笑うのかと言うほどの満面の笑みです。
子どもがあれた時は、責任は追及しない。理由などないんです。
そういう時は、母親は自分の人生をちゃんとやる!
母親が何かに熱中しているのは、子どもにとっても癒しになるんです。
何かと言ってもテレビとか食べ歩きではなく、ちょっと知的で努力を必要とするもの。
母親が一生懸命している姿が子どもは嬉しいんです。
この講演会は「昔ばなし」を通しての子育て、親育て講演会だったような気がします。
「人間はもみの木のようにまっすぐ育つ。」
小澤さんの家の大事にしていたもみの木を、植木屋さんが、このままじゃ危ないとてっぺんをチョキンと切ってしまったそうなんです。
ところが、暫くすると、またなんと同じ美しい形に戻ったのです。
それをみて、小澤さん、植物にさえ「こういう形になりたい!」という強い意志がある、と。
いわんや、人間にも。。。
悪くなろうと思っている子は一人もいない。
子どもを心から信じている小澤さんのメッセージは、そのまま昔ばなしを語り継いできたおじいちゃん、おばあちゃんの心だったのです。
けっして道徳的ばかりではないけれど、力強く生きろ!したたかに生きろ!というメッセージが聞こえてきます。
未知への好奇心は魂を駆り立てる。。。
もう知っているものとの出会いは魂を静める。
人間にはその両方が必要!!それが昔ばなし。
「昔ばなし」に1歩足を踏み入れると。。。
小澤俊夫教授 2007年度 ヨーロッパメルヘェン賞受賞 受賞式は秋
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