病と時代背景そして忘れてはならない樺太(サハリン)での生活。
目に浮かぶような樺太の描写の連続でした。
トド松、エド松、ホロナイ川そして木陰から現れるトナカイ!!
季節が替わり、移り行く自然に「何をかくしているの?」と思い、いつも目をこらしていたそうです。
滅びと再生を目の当たりにした子ども時代。神沢さんの原風景はここだったのです。
「川の源も見えず、果てもみえず、目の前の川は途中」
作品を書き続けた神沢さんの心には、この川がいつも流れていたことを感じました。
北海道での講演会の時、まどみちおさんの詩集をも手掛けた編集者の伊藤英治さんにこういわれたそうです。
「いぬいとみこさんや佐藤さとるさんは原書を読んでいたはず。でも、神沢さんは、何もないですねぇ~。」
大地のエネルギーをそのまま文章にしている神沢さんならではのエピソード。
ものすごくうれしかったと笑いながらお話する神沢さん、少女のようでした。
オリジナリティーが問われる作家ですから、それはほんとにうれしい賞賛の言葉に聞こえたのでしょう。
「おろかということも、いいことはあるのねぇ~」
会場は大爆笑でした。
ご主人が、結核で入院中で、2人のお子さんとともに間借りの生活、
給食代も払えず、身を細くして生きてるのか、いないのかわからない時に「ちびっ子カムのぼうけん」の執筆。
カムとともに空、山をかけめぐり、「がっかりなんかしていられない!」と、自分で元気をもらっていた。
イノチノクサは病床の自分のためだったのかもと。
神沢さんの思い入れの深い一作のようでした。
病のため自分の子どもともあまり接することができなかったようで、作品の中に出てくる登場人物のモデルは、
自分の子どもでもなければ他の子どもでもなく、
神沢さんご自身の中の、7才や10才の子どもであったと語っていました。
それが素直にうなずけてしまうほどの瑞々しい方で、御年81才にはびっくりでした。
こんな風に年を重ねたいと、みなさん思ったことでしょう。
「子どもに何かを教えようなどとは思っていない。自分が楽しい。こっちにおいで。こっちに楽しい世界があるよ。」
「子どもを揺さぶりたくて、書いたの」
「無意識のうちに書いたものに、この世のすべての物、森羅万象が入っていた。」
「命のほのおを燃え立たせるような、そんな風の一つになりたい。」
言葉の宝石が散りばめられ、まさに「言霊」。「書くことと生きること」は「書くこととは生きること」
だったのです。
神沢利子さんの81年を、少しだけのぞかせていただいた、あっという間の2時間でした。
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