五味太郎
- 絵本をよんでみる
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絵本をよんでみる絵本というのは案外、メディアとして図太くて、こういう差異にはそれほど侵されないんじゃないか、 という気がするのね。
ぼくは絵本て、基本的には こういう翻訳の「誤差」に耐えられるんじゃないかと思っている。
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絵本を読むということは、その作家のわがままをほとんど全面的に認めることでしょ。
それを認めたうえで、今度は読者がわがまま放題にからんでゆく。
そのわがままとわがままのぶつかりあいを楽しむメディアだよね、絵本って。
そのぶつかりあいが、時にとんでもなく快い和音になったり、あるいは不協和音になったりする。
それがつまり「絵本読みのスリル」ってやつで、いちど味わったらくせになる、というほどのものだよね。
だからさ、描き手が読み手の音程、音量、声量もろもろを気にして、和声しやすいように歌ったり、 あるいは読み手が描き手の歌のレベルに何とか合せようなんてしている関係では、スリリングな読書なんて望めないんだよね。
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突然気になったんだけどさ、絵本の読み方って誰にも習ったことないだろう。
ほんとのところ「絵を読む」なんてこと、きちんと習ったことないんだよな。
学校だと、文章に関し ては まあまあやってる。
じゃあそれと同じように、たとえば絵を一枚見て、この絵の主語はどれですか?述語は?修飾しているのは?
なんてことを一回でもやってみたら、もっと絵を読むってことがわかるし、逆に言えば そういう学習がないのに どんどん絵本を読めていると思っちゃてるところが、ちょっと不安。絵本メディアの当事者としたら、かなり不安ね。
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つくづく絵本はガキにはもったいないと思う。
これは理屈なし。
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ちびくろ・さんぼ「ちびくろサンボ」を差別絵本だと問題にしたことがあったけれど、 いや、今でもあの本、何となく居心地わるそうにしているけれど、そのことに関しては、ぼくは 自分がサンボ、あるいはマンボに違いないと心から思える人が発言するまで、 何も言わないほうが正しいんじゃないかと思うよ。
どうも「差別」を図式で考えているような気がするな。
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頑張れとか、我慢しろとか、あるいは忍耐努力なんてことをすぐ口にしてしまう人というのは、 人間という生き物そのものが 己も含めて嫌いなんじゃなかろうかと思うよ。
つまり耐久力とか、持続力といったものはむしろ、機械道具になじむ言葉であって、 生き物という存在は元来そういったものではないんではないかという考えが俺にはある。
つまり頑張ったり我慢したりしないのが、まさに人間性でさ。
それを捨てて機械みたいになれっていう訳だろ、頑張れとか我慢しろっていうことは。
違うかな。
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僕の絵本が好きな人って、だいたい美人だよ。
美人になるという効果もある。
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久しぶりに逆立ちしてみたんだけど、最近、地球はだいぶ重くなっている。
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みんなうんち「みんなうんち」の中国版のタイトルは「大家來大便」だって。
俺、すごい本つくってしまったんだな、知らないうちに。
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近頃の子どもは、鉛筆も削れない、木登りもできない、なんて問題にする人がけっこういるけど、 そういう人歩いて伊勢詣りなんかできるのかな。いのししの生け捕りなんてできるのかな。
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近ごろの子どもは本を読まなくなった、なんて嘆く人もけっこういるけど、 その人自身が、いい読者家だったらそんな嘆き方しないはずだよな。
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ぼく、運動会でも行進でも、どこかの入場待ちでも、 ぐちゃぐちゃしてる行列ってすきだな。
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そういえば俺、子どものころ絵本読んだ記憶ないなあ。
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絵本読むって娯楽だよ。
レジャーだよ。
力んだり、汗かいたり、眉間にしわ寄せたりするようなもんじゃないぜ。