清水真砂子

子どもの本とは何か

子どもの本とは何か

人生は生きるに値するというのは、別の言葉で言いますと、子どもの文学というのは、 「めでたし めでたし」で終わらなくてはいけないということです。
つまり、ハッピー・エンディングでなければいけない。
なぜかというと、一生懸命生きたあげくに悲劇で終わったら、子どもたちにとっては希望がなくなってしまうからです。
人生、ストンと滝に落とされてそれっきりとなるということは、人生に裏切られるということだからです。
子どもの文学はハッピー・エンディングでなければならない。
でも、ハッピー・エンディングってそんなに馬鹿にされなければいけないことなんでしょうか。
そこは、もうちょっと考えてもいいのではないかと思います。

このごろ何かを否定するのと肯定するのと、どっちが楽なんだろうとよく考えます。
私は若いころ肯定する方が楽で、否定するのは大変だと思っていました。
けれども、そうではないのではないかとだんだん思うようになりました。
とりわけ人生を肯定するのは大変なことです。
人生を否定する方が楽です。
人生なんてどうせという人と、人生もまんざらではないよという人と、どっちが大変か。
どっちがすごくエネルギーを使って生きているかといったら、 人生まんざらじゃないよという人の方が恐らく何倍ものエネルギーを使って生きているのではないかと思います。
人生、案外面白いよ、という人と、人生なんてつまらん、という人と、 そういうふうに肯定的にものを考えるのと否定的にものを考えるのとでは、 エネルギーは確実に肯定する方が要るんだと。
子どもの文学は人生を肯定することから始まるわけですから、大変なのは当たり前なんですね。

ハッピーエンディングにするためには、いつも明るいことを書かなくてはいけないということではない。
その作家に人生を肯定する思想あるいは姿勢があれば、どんな醜いことを書いても、それは読者に伝わるのです。
逆にそういう思想や姿勢がないと、どんなに明るく書いても虚しくって、 読み終わった時にその作品は私たちの背中を押してくれない。
要は、作者が人間を信頼しているかどうか、人間に希望をもっているかどうか、なんでしょうね。
闇を書いたっていいのです。
闇だって当然書くべきです。
子どもはとうに見ているわけですし。

おもしろい大人がいない
私もそう思います。これは私だけでなく、いろんな人が言うことですけれども、 日本の児童文学は、いくつかもちろん例外はあれ、おもしろい大人が書けてないんです。
子どもにばかり目が向かっていて、おもしろい大人がなかなか出てこない。
イギリスの児童文学は、もちろん翻訳されたものは厳選されてきているということもあるんですけれども、 私が大人としてその本を読むと、この人とお酒を飲んだらおもしろいだろうなという大人がいっぱい出てきます。
そういう大人が書けないというのは、日本の児童文学の薄さというか、浅さというか。
こんな薄っぺらな大人では子どもは育たないよ、と思ったりしてしまいます。
善人かもしれないし、子どものために、子どものために、でやっているかもしれないけれど、子どもにとっては、 自分たちのほうばかりを向いてる大人じゃなくて、大人自身のために生きている大人を見たいんじゃないかな、 そんな気がします。

その世界にはいりこんでいるかぎりは成長しなくて済む「ズッコケ」シリーズのような本は、
子どもが疲れている時にフッと読みたくなる本だろうなと思うんです。
私はなにも栄養価の高い本ばかりが本だとは思わなくて、駄菓子だって、少々合成着色料が入っていたってかまわない。
そういう本も子どもにとってはやはりとても大切なものだという気がします。
>みんなが子どもにあまりに成長、成長と言い過ぎるから、子どもはちょっとゆっくりしたいんですよね、きっと。
何も生産しない。進歩もしない。
ただ今をちょっとゆっくりしたいという子どもの気分にすごく合っているんだろうなと思いました。

新入の学生たちによく言うんですが、わかり急ぐな、青春時代に、問いをたくさん抱えたら、生きられるよと。
学生たちは、学校というところでそんなこと初めて聞いたと言うんです。
学校という役割がそうさせるのかもしれませんが、わからなさを抱えるということ、 その豊かさに、意外と触れていないんですね。


ゲド戦記: 訳 清水真砂子