山本容子

わたしの美術遊園地

わたしの美術遊園地

「作家というのに年齢は関係ない。
40歳の私が、この前にいる19歳の女性とライバルになるかもしれない。
それに才能は、性別、年齢、国籍を超えてあるものだから、
学歴などは何の役にも立たない。
私がこの若い女性を作家としてあつかったのは、そんなにおかしいことではないと思う。」
私は、この言葉を聞いて、急に作家というものになってみたくなった。

不思議にも、自分が自分だと自覚する瞬間があるという。
たいていは、階段を転げ落ちるといった恐怖の中に自分を自覚するらしい。

=わたしの美術遊園地= 私の絵本箱より
『クレーの絵本』
1枚の絵を前にして、いったいどのくらいの時間その絵をながめていることができるのだろう。
何を見て、何を思い、そしてどんなイメージが心の中に浮かんでくるのか、
絵を見ることは、自分との対話だということに気がつく。
そして、また思う。
画家はこの絵を前にしてどのくらいの時間を費やしたのだろう。
目をこらして絵をのぞきこみ、画家の筆致をたどってみる。
重ねられた絵の具の厚みや、ひっかかれた線の跡をたどり、画家のパレットの上の色をかぞえてみる。
1枚の絵が描かれたプロセスを読みとりながら、画家と同じ体験をしていると、
不思議な事に絵の中に入りこんだ自分に気がつく。

『ももたろう』
むかし、むかしで始まる物語は、全部耳から聞いた。
文字の読めない頃、絵本を持って母や祖母をつかまえては物語を読んでもらった。
ただ、私の場合大人を床に座らせて、ひざまくらをしてもらうとおなかに耳をしっかりとくっつけて、
ハイドーゾと言った。
おなかの中を通って耳に入る声は、日常の母の声ではなくなって、物語の中のナレーターになってくれるので、
両手でしっかり持った絵本の絵をながめているだけで、すぐに物語の世界にワープすることができた。
繰り返し聞いた物語でも、読み手の個性で絵の見え方が違うものだということも学んだ。

『オイスター・ボーイの憂鬱な死』
「これ、おもしろいよ」と勧められて借りた本が、全然おもしろくなくて、 でもおもしろさを分かろうと努力したころありませんか。
私には、おもしろさについていけず、取り残されたような気分を味わった本がありました。
でも、「オイスター・ボーイの憂鬱な死」を読んで、おもしろさは心の状態に左右されることを再確認しました。